宝塚市の歴史解説!意外と知られていない、市の生い立ち
こんにちは!
弊社が主に物件を紹介している宝塚市
宝塚歌劇団で有名な市ですが、意外とその歴史や生い立ちなどは知られていません。
今日はそんな宝塚市の歴史を解説します。
宝塚市の誕生と発展
宝塚市は、昭和29年(1954年)4月1日に宝塚町と良元村が合併して誕生しました1。市名の由来には諸説ありますが、元禄14年(1701年)の地誌「摂陽群談」によると、市内に多く残る古墳のそばで物を拾うと幸せが訪れるという言い伝えから「宝塚」の名が付いたとされています
宝塚市の発展には、阪急電鉄の創業者である小林一三氏の存在が大きく関わっています。小林氏は宝塚歌劇、温泉、遊園地、映画製作所などを設立し、長年にわたって宝塚の文化や歴史を築き上げてきました。これらの取り組みにより、宝塚市は阪神間モダニズムの影響を受けながら、モダンで進取の気風に富んだ「文化芸術のまち」として発展していきました。そんな小林一三氏ですが、銅像が、宝塚歌劇場の前に立っています。
人口増加と都市化
高度経済成長期に入ると、宝塚市では宅地開発が進み、人口が急増しました。昭和42年(1967年)には人口が10万人を超え、さらに昭和62年(1987年)には20万人を突破しています。この人口増加に伴い、都市としての機能も拡充されていきました。
人口増加と都市化
宝塚市は文化芸術のまちとしての特色を活かし、様々な文化施設を整備してきました。平成6年(1994年)には手塚治虫記念館がオープンし、平成12年(2000年)には第1回宝塚映画祭が開催されました。さらに、令和2年(2020年)には文化芸術センターがオープンするなど、文化的な魅力を高める取り組みが続けられています。
災害と復興
平成7年(1995年)に発生した阪神・淡路大震災では、宝塚市も大きな被害を受けました。119人もの尊い命が失われ、全半壊の家屋は1万棟以上に上りました。しかし、この困難を乗り越えるため、市民主体の取り組みが活発化し、人と人とのつながりを大切にしながら、災害に強いまちづくりが進められてきました。
宝塚市の象徴
宝塚市には、市の象徴となるいくつかの要素があります。市花は昭和43年(1968年)に制定されたスミレに加え、令和3年(2021年)にダリアが追加されました1。市章は市制施行時に一般公募され、カタカナの「タカラ」の3文字をイメージしたデザインとなっています。また、市歌も同時期に作られ、現在ではごみ収集車でそのメロディーが流されています。特徴的な建造物
宝塚市には歴史的価値のある建造物も残されています。その一つが、平成29年(2017年)に景観重要建造物第1号に指定された高碕記念館です。大正12年(1923年)に建築されたこのアメリカンスタイルの洋館は、現在も一般公開されており、宝塚市の歴史を物語る貴重な建造物となっています。
スポーツの歴史
宝塚市はスポーツの分野でも興味深い歴史を持っています。大正13年(1924年)には、日本初のプロ野球球団「日本運動協会」が関東大震災の影響で解散の危機に陥った際、小林一三氏の尽力により宝塚に招聘されました。「宝塚運動協会」として再出発した球団は、約5年間にわたって関西の野球界をリードしました。現在の宝塚
現在の宝塚市は、文化芸術のまちとしての伝統を守りながら、新たな魅力づくりにも取り組んでいます。平成21年(2009年)からは観光大使としてリボンの騎士「サファイア」が活動を開始し、平成23年(2011年)には宝塚だんじりパレードが始まるなど、伝統と革新が融合した街づくりが進められています。また、交通の利便性向上にも力を入れており、平成30年(2018年)には宝塚北サービスエリアとスマートインターチェンジが供用開始されました。まとめ
宝塚市は、その誕生から70年の間に、文化芸術のまちとしての個性を磨きながら、都市としての機能も着実に発展させてきました。阪神・淡路大震災という大きな試練を乗り越え、市民の絆を深めながら成長を続けてきた宝塚市。
これからも、豊かな歴史と文化を基盤に、新たな魅力を創造し続ける都市として、さらなる発展が期待されています。
弊社も歴史あるこの街での暮らしのお手伝いをして参ります。
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